安産祈願の寺・洛陽八番観音霊場 大蓮寺

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走り坊さん物語

走り坊さん物語

【飛ぶが如く走るが如く】ー走り坊さん伝説ー 住職 芳井教哉著
この物語は平成20年 副住職の時に書いたものを元に、編集しています。

この「走り坊さん」図は、走り坊さんと同時代を生き、本人の事を最もよく知る祖父芳井教戒(大蓮寺19世)が生前に記したものを基として、日本画家藤野正観先生にお伝えし描いていただいた絵です。

ニュアンス的な事も含め、走り坊さんの寺・大蓮寺が認める唯一の公式走り坊さん図です。[題字芳井教戒]

この記事以降、平成29年、走り坊さん百回忌を記念して生家の新田家が、同じく祖父の証言を基に走り坊さん木造を二体造られ、一体を当寺に寄贈せれ所蔵しております。
この像も本堂にお祀りしております。

ー序ー

私の知っている『走り坊さん』の話は、殆ど祖父大蓮寺十九世住職教戒(明治40年~平成5年)より聞いた昔話が根拠となっています。

また、その時幼い子供だった私は、聞いても信じられないような不思議な話ばかりでしたので、正直言うと「また、おじいちゃんが昔話を誇張している」とくらいにしか感じていなかった。
今、30年以上たって、43歳(平成20年)になった私が、この物語を書くにあたって思うのは、祖父の話をもっとちゃんと聞いておけばよかったという後悔と同時に申し訳ない思いでいっぱいです。

今、そういう思いもあり「走り坊さん物語」を記す所存です。

先ずは、みなさまに『走り坊さん』の特徴をいいます。(祖父の証言を基に)

「飛ぶが如く走るが如く、洛中洛外を走って走って走り通した大蓮寺籏玄教(走り坊さん)
雨が降ろうが風が吹こうが彼の走る姿を見ない事はなかった。
大きな坊主頭の法衣姿に汚い頭陀袋を下げて、グッと丹田の辺りに力をこめ乍ら、彼は緩急よろしきを得た一定の速力を以て毎日毎日走り廻った。
毎月1回、未明に起きて先ず四明ヶ嶽(比叡山)を踏破し鞍馬山をかけて、更に愛宕神社に詣でて帰ることに極めて居たのを見ても其健脚が知られようされば、洛内外の隅にまで彼の知らぬ処はない。
半面には慈善救済の心懸けは忘れず、終始貧民窟に出入りして、有りったけの私財をはって顧みなかったので何時とはなく今一休の名さえ伝わった」
大正7年12月4日の朝日新聞京都版の記事より抜粋

「彼の姿はというと、一年中背中に番傘を担ぎ(実際はずっと担いでいたわけではないらしい)、右手には扇子をもち、前と後に「大蓮寺」と染め上がった頭陀を持ち、扇子で調子を取って走り。心臓の強いこと抜群で、1日に15里(60㎞)もの道を托鉢していた。」
祖父の晩年の直筆書より

ー生い立ちから入門ー

いきなり余談からはじまり恐縮ですが、これは筆者のこだわりです。
つまらないことかもしれませんけど個人的に大切な事と思ってますので、少しお耳を(目かな?)拝借。
僧侶を指す『坊さん』という言葉は普通『ぼうさん』と読みます。しかし、我々京都人 (関西)はこの言葉を『ぼんさん』と呼ぶのが習慣です。みんな、そう呼んだはると思います。
あんまり上品な例えでなく恐縮ですけど、関西には10を数える単純な遊びに『坊(ぼん)さんが屁をこいた』というのがあります。(だるまさんがころんだの関西版)
このように京都では昔から『坊(ぼん)さん』と読ぶんどす。
だから走り坊さんの読み方は「はしりぼんさん」が正解です。
当時もそう呼ばれていたようです。

走り坊さん伝説の本筋に入ります。

「走り坊さん」こと新田常治は明治五年十一月二十日、泉州今でいう貝塚市清児に、父新田忠三郎、母津幾(戸籍謄本からなので読み方不明)の次男として生まれています。

祖父の話によると、
「走り坊さんは生まれつき小さかったんや。それでご両親が体の弱いのを心配され、同郷の住職のいる京都のお寺に預けよって決めはったんや。
お寺に預けたら、早起きやし掃除や勤行や檀家回りで鍛えられると思たんやろな。うちの寺に来た理由は、わしのおじいさん《大蓮寺十七世芳井玄定(江戸時代後期~明治38年)が、清児のとなりの山中三ヶ山という村の出身でその縁を頼って京都に出てきゃはったんやろな。」

祖父の死後、平成五年に解ったのだが、走り坊さんの実家新田家は現在も清児町にあり繁栄されています。その新田様のご行為によって戸籍謄本も見せて頂き『走り坊さん』の素性が現在すべて明らかになりました。
残念なことに祖父は新田家の方々を知らずに亡くなっています。

注・大蓮寺は戦前迄、今の下京区五条西洞院の所にあったが、国の命で五条通りを広くする際、寺は潰され強制に疎開させられ荷車一つで現在の地に移る。よって物語上の場所は現「大蓮寺」とは異なります。

『走り坊さん』が大蓮寺に来たのは、十八歳の時ということなので明治二十三年になる。
最初は、正式に僧侶になり、得度し弟子入りという格好ではなかったようです。例えていうと、映画『男はつらいよ』で 佐藤蛾次郎さんが演ずる源公みたいな役割でしょうか。寅さんが柴又へ帰って来た時に帝釈天の境内を掃除しているような感じの寺男やったんです。
祖父の話によると、
「『走り坊さん』はご両親の願いどおり、寺に入ってからは毎日墓地や境内を掃除し日課の勤行をし、身心を鍛練しているうちに丈夫になっていかはったんや。せやけど、身長は1m43cmで大人になっても小柄なままやったんや、(それは明治の人といえどもかなりの小ささ)ある日汽車に乗ったとき車掌さんから『汽車賃半額でええ』って子供扱いされたことがあるんやで。(笑)」 
「そのうち、住職の言づてやお守りなどを檀家さんや信者さんに届け、京都市内を一日に何件も回るようになるんや。」 
後段でありますとおり、安産祈願の寺で知られていたので交通の不便な時代の事、妊婦さんにお札を渡しに行っていました。
この頃のお寺は、今と違ってたくさんの人が住んでいたようです。住職、弟子僧、小僧、寺男等。『走り坊さん』も若いころはそんな大勢の中にいたせいか、特別目立った事もなく、エピソードは残っていません。

『走り坊さん』の話が多く出てくるのは、大蓮寺に来て15年目の明治38年3月25日、32歳の時に最初の師僧芳井玄定が亡くなり、師僧が次の住職で同玄定の娘婿の芳井教岸(祖父の父)になってからです。

ー「走り坊さんの師匠」の大蓮寺十八世住職道誉教岸ー

ここで、一旦脇にそれますが『走り坊さん』と最も関係の深い人物として、大蓮寺十八世道誉教岸のことについて。

教岸は米屋宮川家の四男として生れまれます。おじいちゃんの話によれば宮川家は代々彦根の井伊家に仕えるそこそこ身分の高い家だったという話です。
父の宮川善兵衛は、あの有名な「桜田門外の変」頃以降は武士をやめたのか、彦根から京都と渡りながら米屋を営みつつ細々と暮らしていたということです。そのような家の四男・教岸(幼名不詳)は、口減らしと家の功徳になるだろうの思いでか、故郷近くの安土の福生寺という寺に出され籏忍教上人の弟子(小僧さん)となります。そこから、厳しい小僧さん修行をおくります。生まれ持った境遇からか負けん気の強い性格からか誰よりもがんばった結果、籏忍教上人に認められ得度して籏教岸と名乗り一人前のお坊さんになりました。
その後も修行し、実績が認められ同寺の住職に迄なりました。
それ以降、教岸は宗内でも知られるようになり、京都大蓮寺住職玄定の娘定(祖父の母)との縁があって結婚しまし、芳井教岸になりました。
祖父の話によると教岸は、今の常識では考えられないくらい厳しい人やったらしいです。その教岸が住職になった後は、本山の金戒光明寺執事長を長年つとめ、走り坊さんが亡くなった後のことですが、昭和20年には同本山の65世法主に就任しています。
しかしながら、心労だたたり1年後の21年3月17日に極楽往生しています。

教岸は晩年、もと師匠籏忍教の籏姓を残すために、弟子の新田常治こと「走り坊さん」を養子として。籏を姓とし玄定の「玄」、教岸の「教」をもらい走り坊さんは出家名は籏玄教と名乗ります。
教岸には他にも弟子はおりましたが、「走り坊さん」に対する愛情の深さがここからも伺えます。

ー安産宅配便・走り坊さんー

明治時代以前の京都には皇居がありました。そんな関係で京都には天皇家や宮家とつながりの深い寺社仏閣がたくさんありました。
大蓮寺も江戸時代に後光明天皇の婦人が御懐妊の時に安産祈願の勅願され無事、女一宮が安産で誕生されました。
そのご縁で陛下が亡くなった後も、生まれた孝子内親王は大蓮寺に帰依され熱心な念仏信者となります。
以降も後光明天皇の甥宮でありました有栖川家が代々意志を継がれ、同宮家絶えるまで大変庇護していただき、今でも当寺の安産のお守りの本体には有栖川家の御紋を使用しています。

そんな関係もあってか、たくさんの方に伝わりだんだん安産のお参りが多くなっていました。
明治の中期から後期になると、安産の守護符やお守りやお腹帯を求め、多くの京都のご婦人が参詣されるようになってくるのですが、交通不便な時代に身重の人が参詣しにくいので、走り坊さんは頼まれて届けるようになったようです。
そのうち、毎日毎日走っている走り坊さんは有名になり、巷では『走り坊さん』と呼ばれるようになった。
おかげで、安産守護符の配達も何百件になったといわれています。更にそれが宣伝効果になって信者さんがふえていったようです。
『走り坊さん』が運んでいた安産守護符は、安産阿弥陀如来の功徳の大きいものですが、今でも当時と同じものを安産祈願の授与品としてお出しております。
それは《安産御宝号》と書いた小さな紙の袋に入っており中には阿弥陀如来の宝号が入っている。
これをもらった妊婦さんは、次の早朝に一番水(白湯でも良い)と一緒に飲めば、如来さまの功徳を直接にいただき安産になり、さらにお腹のお子さんの成長にも功徳広大といわれています。だからなかなかお参りできないけど、是非守護符が欲しい妊婦さんは『走り坊さん』に頼んだのでした。
また、やさしい『走り坊さん』は誰に頼まれても、どんなに遠い人の所にも運んでいってあげました。
昔の時代の安産宅配便です。

ある日、不思議な出来事がありました。大蓮寺で安産祈願した妊婦さんが陣痛がきたのでいつもどおりに守護符を飲まれました。数時間後に分娩されましたが、なんと不思議なことにお母さんの飲んだ守護符を、生まれたお子さんが右手に握っておられた。
常識で、口から入ったものが子宮から生まれた子供の手にあったってあり得ますか?祖父によると過去、そんな事は何例かあったようです。

ー得度し本当の僧侶になる?ー

玄定が亡くなってから2年後の明治40年に、この話の裏の主役、おじいちゃんこと祖父が誕生します。
その年に、『走り坊さん』は得度して所謂本当のお坊さんの見習いになりました、僧名は前段どおり『籏玄教』と名乗り立派な僧侶名になりました。

得度はしたけど偉ぶることが苦手な本人は、今までどおりであったようです。位や地位などには全く興味のなかった『走り坊さん』はお経を覚える気も全然なく気持ちは寺男のままだったようです。
おじいちゃんの話から想像するに、この人は、もともと欲というものが人並みになかったようだ、
「世に知られるようになってから、今でいうファンみたいな人やろな、そんな人から京都市内を走っているとよく喜捨を受けてはったみたいやけど、寺に帰った時、『走り坊さん』の頭陀袋の中はいつも空っぽやった。あとでわかったんやけど、貰った金品を貧しい人の家に行っては全部あげてたらしい」これは、最初にも書いたとおりですが、このことからか、当時の人は「走り坊さん」を今一休と呼ばれたらしい。
祖父も、このようなことは大人になってから(走り坊さんが亡くなった後)知ったようです。

「あと、女の人にももてたんやで。独身やったんは、皆知ってはったんで、きゃーきゃー言い寄られたていう話やけど、本人が全然色恋に興味が無くて、声かけられたら必ず「はい、さようなら」って、それでしまい。(笑)」 
何事にも無頓着な『走り坊さん』だが、困ったことはあった。それは、世間の人はお経を覚えていない事は知らなかった。
「人気者の『走り坊さん』は、時々お寺の檀家さんやそれ以外の町の人からも、是非お経を読んでくれって頼まれて帰ってきはったんや。」
お経も読めないのに頼まれたら性格的に断れない。師匠にも無断でお参りの依頼を受け『走り坊さん』、困ってしまった。その時、「走り坊さん」どうしたかというと。
「わしを探さはったんや。『マーちゃん(祖父の幼名)いるか。一緒にお参り来て』って。わしは、父親が厳しかったから、物心ついた時から毎日がお経の練習ばっかりやった。小学校から下手なりに簡単なお経は、そこそこ暗記してた。それを知って『走り坊さん』は、小学生のわしに助っ人を頼んだんや。『走り坊さん』は、師匠の命で小僧を連れてきた、という体にする、わしは『走り坊さん』の横に小僧として座る、鐘がなったら『走り坊さん』はお経唱えるふりして、本当は全部わしが唱えるのや。(笑)
でも、家の人は『走り坊さん』がわざわざ来てくださったって、えらい喜んで御礼をしてくれはるんやで。」

「いややなかったか?って、正直いうと、お参りの帰りに『走り坊さん』は、いつもうどん屋に連れて行ってくれるんや、そしてきつね丼を食べさせてもらうんや。(笑)あの頃はすごいご馳走やで。それが楽しみで『走り坊さん』から声かかったら嬉しくて!(満面の笑み)」
子供とお経の読めない坊さんの変な(?)コンビは、しばらく続いたそうだ。
晩年のおじいちゃんは、この話をする時が一番楽しそうだった。あの『走り坊さん』の役にたっていたことが何とも誇らしげで、小さな私としても、そのおじいちゃんの話っぷりで、『走り坊さん』のやさしい人柄や、本当は損得勘定抜きに、お互いを大好きだったことが十分すぎる程伝わった。 

ー大酒豪ー

前のところでも充分知っていただいたと思いますが、『走り坊さん』という人は、あれだけ人気があったのに、地位や名誉には全く関心がなかった。金品にも興味なく、女性にもからっきしだった。
おじいちゃんによれば、こんな『走り坊さん』でも、かなりの大食漢で大酒豪やったらしいです。
これは直接聞いた訳では無いですけど、おじいちゃんの書き残した物の中に、
「彼は米一斗、酒一斗いっぺんに食し、正月雑煮の餅は七十個もたいらげた」とあります。
おじいちゃんは生前、年始を迎えるといつも「走り坊さん」の七十個餅を食べた話をしました。
当時、正月の恒例行事として、年末についた餅をもって、お寺の人みんなで檀家さん一件一件に挨拶に行ったらしいです。もちろん、便利な乗物(自動車・バイクはもちろん自転車も無かった時代)は無かったから、本当に寺の人々が総動員して走り廻ったということらしいです。その後に、帰ってきたみんなでお餅を雑煮に入れて食べたという話です。

余談ですけど、雑煮は「京都風・白みそ」の雑煮です。他府県の方も、食べられた事のある人は、よくおわかりと思いますが吸い物としてはかなり甘いです。京都では、怒られるかもしれませんが私は大の苦手です。

その中に、食べ盛りの若いお弟子さんや息子(おじいちゃん等)が餅を入れてたらふく食べたそうです。最後は、競争して食べたそうです。
「昔の事やから、今と違っておなかいっぱい物を食べるのは正月くらいやったんや。今のおまえらにはわからんかもしれんけど、お餅はすごいごちそうやんたんやぞ。」「わしもその時ばかりは、お腹がちぎれるほど食べた二十個以上や。でも走り坊さんは、もっと食べはったぞ五十以上はいつも軽い。その上お酒の飲みっぷりもすごかったんや。」

お酒といえば、ある意味「走り坊さん」の真骨頂でエピソードも多い、
おじいちゃんの話によると1日約1斗やったらしい。おじいちゃんの昔話で、必ず出る話が後述の愛宕山の話と大酒の話でした。私もお酒は飲みます。日本酒は、あまり得意な方ではないのですが、今までに一度だけ1升飲んだことがあります。20歳のころ若さ故、友人と話がはずんで朝方まで飲み明かしました。次の日は、察しのとおり大変なことになりました。あんな2日酔いは、はじめて経験しました。それから、2度と1升はもちろん、日本酒はほとんど飲めなくなりました。(で、専らビール党です)
だから、日本酒1斗ってどんなに馬鹿げた数字かも、わかっています。今でも信じられません。しかし乍ら、知りうる限りの事実だけをつなげますと、「走り坊さん」が、1日に訪れた檀家さん及び信者さんの件数は平均100件あまり、みんな「走り坊さん」の酒好きをしっていたらしく、お茶の代わりにお酒をコップ1杯強(約1合)出していたらしく、「走り坊さん」も大好きやったから、そのお酒は、絶対断ることなく飲んでいたらしいです。
単純計算で
1合×10件=1升  1合×100件=1斗
ということになる。単純計算ですけどね。
このうそみたいな話にも、ほんの何年か前には、目撃者が何人かご存命でした。例えば、二十歳くらいの若嫁の時代に「走り坊さん」に直接面識があった、大蔵流狂言師で人間国宝・現茂山千作氏の母上さまの故寿賀さんの話によれば、「いつもお酒を1合くらいを出していたました」と、大蓮寺の昔話として詳しく証言されておりました。また、私自信もご本人から生前に聞いたことがあります。
おじいちゃんの話によれば夕方には、ベロンベロンに酔っぱらって、しょっちゅうお巡りさんのお世話にもなってたみたいです。「でも最後は、走り坊さんと解って釈放されはったんや」

ー神懸かりな健脚ー

走り坊さんは健脚でならし当時は有名やったらしい。おじいちゃんによれば、
「お寺に来てからの心身の鍛練のせいか、心臓が強いこと抜群で1日に15里(60km)を托鉢して回り、月に3度は朝4時に起きて比叡山四明岳に登り北山沿いに鞍馬山の鞍馬寺に参詣し、さらに北山の裾を通り愛宕山に参拝し火の用心を祈願し昼頃には寺に帰ってくるという健脚ぶりやったんや。」
私もそれぞれの山には何度も登ったことがあります。年配の方でも健脚の人なら充分登れる山です。但し、1日に全部登るとなると時間的にありえない事です。まずもって常人には不可能です。京都の人なら普通に納得していただけるでしょう。

この中でも特に走り坊さんが好んで登った愛宕山は、古くから火の用心でしられ、生まれた子供が3歳までに登と一生火災には遭わないと伝えられています。京都市内から登れる山としては、1000m級で一番高い山です。
京都では、特別に神秘的な山でもありますし、愛宕山に登ることが健康の証みたいなところもあります。

この愛宕山にまつわる「走り坊さん」のエピソードで、祖父が子供の頃のある日、何人かの仲間で愛宕山に登ったある日のことです。みんなは、午前中に登山を終え頂上で昼食もして下山し、ほぼ降りてきて入り口の鳥居に降りた時、一緒に登山した一人がリュックを頂上に忘れていた事に気づいたようです。
その時、月に3、4度の愛宕参りに行く途中の「走り坊さん」が現れたといいます。困っていたおじいちゃんたちが、相談すると「取ってきてあげる」といとも簡単に言った「走り坊さん」は、鳥居くぐって登山していったということでした。

ここからは生前のおじいちゃんの台詞のままですけど、
おじいちゃん「走り坊さんはな、それから10分くらいでもどってきゃはったんや。何か忘れ物かなと思って見ると、頂上でわすれたリュックもってはったんや。」
私「ありえへん。愛宕山登ったことあるけど。普通登るだけで1時間以上かかるで。半分の30分でも不可能や。うそくさすぎる」「遊んでて、時間短く感じたんや」(本気でボケかなと思った)
おじいちゃん「そんなこんないうてる間がないほど早やかったんや。みんな目撃してる」
私「途中、誰か登山者と合って。渡してもらったんちゃうか?」
おじいちゃん「あほか。そんなんが誰もいいいひんかったんや」「のりや(私)言うとくけど。この世は理屈じゃはかれん事があるよ。おそらく仏教でいう神通力や。」「走り坊さんは、きっと誰かの生まれ変わりや。間違いない。けどおまえら若い子に納得できる説明ができない」

これは物理的には絶対不可能な話ですが、40歳を過ぎた今、漠然とだがありえると本気で考えている。
それは、歴史上の偉人や偉い宗教家などを、単純に凡人の自分レベルの物差しで測ることの愚かさを少し理解できるようになってきた。これ以上は、うまく言えないけど。将来自分の孫にはおじいちゃんと同じ事をいうと思う。

ー走り坊さんの葬儀ー

走り坊さんは、大正7年11月20日に亡くなりました。11月20日は走り坊さんの誕生日でもあります。命日と誕生日が同じ日というのは幕末の英雄坂本龍馬さんもそうです。(余談)
走り坊さんは46歳の時、流行性感冒という病にかかります。当時流行のスペイン風邪という、いわゆる新型インフルエンザです。今なら簡単に治った病気も当時は命とりとなりました。死期を悟った走り坊さんは、とにかく酒をほしがったといいます。

ここからは、実際に見ていたおじいちゃんの話ですが、酒の入った一升瓶を渡されると、それをおいしそうに飲み干しそのまま亡くなったそうです。
それから数日後、走り坊さんの葬儀が大蓮寺で営まれた(当時五条)そうです。その事は大正7年12月4日の朝日新聞京都版で掲載されています。
その記事のはじまりが、序章で書いたってもらう為に、その特徴を書きます。

「飛ぶが如く走るが如く、洛中洛外を走って走って走り通した大蓮寺籏玄教(走り坊さん)。
雨が降ろうが風が吹こうが彼の走る姿を見ない事はなかった。大きな坊主頭の法衣姿に汚い頭陀袋を下げて、グッと丹田の辺りに力をこめ乍ら、彼は緩急よろしきを得た一定の速力を以て毎日毎日走り廻った。
毎月1回、未明に起きて先ず四明ヶ嶽(比叡山)を踏破し鞍馬山をかけて、更に愛宕神社に詣でて帰ることに極めて居たのを見ても其健脚が知られようされば、洛内外の隅にまで彼の知らぬ処はない。
半面には慈善救済の心懸けは忘れず、終始貧民窟に出入りして、有りったけの私財をはって顧みなかったので何時とはなく今一休の名さえ伝わった」
大正7年12月4日の朝日新聞京都版の記事より抜粋

葬儀の時、走り坊さんのことは、十分知っていたはずの師匠教岸はじめ寺の者も、どこでどんな人に会っていたかもは知りませんでしたので、会葬者の数はあんまり多いとは予想していませんでした。ところが、ふたを開けると次から次から大蓮寺の前は会葬者が途切れなかったそうです。その多くは走り坊さんに困っている時、物品を恵んでもらった人やったそうです。大蓮寺の人々も、この時改めて走り坊さんの功績を知ることとなりました。このことは、幼いおじいちゃんにも衝撃やったそうです。大正時代の新聞は、こんな走り坊さんを「今一休」とたたえています。
走り坊さんの「走り」により救われた人も多くいたという事です。

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